自己紹介
2025年05月15日 16:45
ストレッチLABO山口(周南店)の、神経系ストレッチトレーナーで、理学療法士の高柳です。
私自身のことと、神経系ストレッチフランチャイズを始めたきっかけ、これからのことなどを書いています。時間のある時などにゆっくり読んでください。
2003年 理学療法士免許取得、リハビリテーション専門病院に就職
2004年 同法人ないで通所リハビリテーション、訪問リハビリテーションに移動
2006年 急性期総合病院に移動
2020年 整形外科クリニックに移動
2022年 筋膜系整体院で個人事業開始
2025年 株式会社一期一会創立、神経系ストレッチフランチャイズ、ストレッチLABO山口(周南店)をオープン
理学療法士になったきっかけ
私は、山口県で生まれ育ち、中学時代は卓球に打ち込み、高校では自転車競技に打ち込み、自転車競技のプロになることを目指していました。しかし、自己流の練習で追い込みすぎ、慢性疲労状態となり不整脈がひどくなり、自転車競技は諦めました。その後、大学進学を目指して、浪人生活を送っていましたが、その時にテレビの深夜放送でバイクのワールドグランプリを見て、バイクを寝かして走るプロライダーの走りに魅了され、大学に行くのは止めバイクレースの世界に飛び込みました。
三重県の鈴鹿市に居を移し、仕事とレースに明け暮れる日々を送りましたが、一度も予選を通ることなくレース生活は終わりを告げました。理学療法士という仕事を知ったのはその頃で、レース中に転倒して骨折して入院した友人のお見舞いに行くと、友人が今からリハビリがあるということで、病院の端っこにあるリハビリテーション室まで送って行き、少しリハビリの様子を見せてもらいました。その時に初めてリハビリと理学療法士なるものを知りました。
好きな道を選ぶ
レースを辞めた後は、大学に行くか就職するか迷いましたが、地元で自動車関連の事業をしている親戚から跡を継いでほしいという話があり、車やバイクが好きだったこともあり、親戚の事業を手伝う事にしました。車のタイヤを変えたり、オーディオを取り付けたり、時にはエンジン周りをいらったり、それなりに楽しい日々を過ごしていました。しかし、リハビリや理学療法士に惹かれる気持ちが抑えられず、自分で色々と調べました。
当時はまだ理学療法士の数は圧倒的に少なく、学校に入学することがまず難しいとされていました。しかし、どうしてもチャレンジしたい気持ちを抑えきれず、働きながら受験勉強し、一回受験してダメだったら諦めるつもりでした。しかし、どういう巡り合わせか、最初に受験した学校から合格をいただき、その学校に即入学を決めました。4年間の学校生活長かったですが、人生で初めて一所懸命学業に取り組み、卒業するときは成績優秀で校長賞なるものを頂きました。
ここでも神経だった!
最初の就職先はリハビリテーションの専門病院で、ここでニューロリハの専門家になるつもりでした。ニューロとは神経内科や神経のことを指し、リハビリテーションの分野では脳卒中後のリハビリのことを主に指していました。何故ニューロリハだったかというと、学生時代に神経内科学を講義に来ていた大学病院の神経内科医が講義の冒頭で、「理学療法士、作業療法士の皆さんは、脳卒中後のリハビリで脳卒中患者さんが回復していると思っているかもしれないが、神経内科医の立場から言うとリハビリしてもしなくてもある程度までは自然に回復します、リハビリするから回復するわけではありません」と言われたことで、それなら、自分が患者さんを回復させるような理学療法をやってやる!と思ったのがきっかけでした。
しかし、自分の気持ちとは裏腹に、国家資格を取って就職したとて、まともな理学療法はできませんでした。学校で習ったこと、実習で習ったことは飽くまで触りであり、卒後の勉強をするスタートラインに立てたに過ぎないということでした。
さらなる試練にさらされる
就職2年目には、同一法人内で通所リハビリテーション、訪問リハビリテーションに配置換えになりました。ニューロリハの専門家を目指していた私には、生活期のリハビリに魅力は感じませんでした。しかし、私のことを頼ってくれる利用者さんがいる以上、全力を尽くそうと考え直し、生活期のリハビリにリハビリにどっぷりと浸かりました。
その頃に、今に通ずる出来事がありました。80代の腰痛が酷くて動けない男性の訪問リハビリでした。誤解を恐れずに言うと、理学療法士は疼痛のリハビリはほぼ出来ません。電気当てるか、温めるか位しか選択肢を持ち合わせていません。御多分に洩れず私もその一人でした。私はただただその男性の腰をさすることしかできず、訪問に行くことが苦痛になっていました。何もできないことが悔しくて、たくさん学びに行きましたが、私の求める答えはそこにはありませんでした。ゴットハンドと言われる先生の背術を真似ても、その男性の痛みは1mmも変わりませんでした。
結局、その男性は体調不良で入院する事になり、訪問は終了しました。私は安堵すると共に、言いようのない悔しさを覚えました。
次なるステップを目指す
痛みに対して無力だった自分を変えるために、もっと学びを深めたいと考えていました。その頃に専門学校時代の友人から、求人があることを教えてもらい、総合病院に職場を変えました。総合病院でたくさん学べると期待大でしたが、結果的には自分の思うような学びはできませんでした。ここでも相変わらず治せない理学療法全開でしたが、同僚も50歩100歩だったので、ある意味安心しました。
結局分かったことは、どこの病院の理学療法士も大したことはないということでした。その頃、ある大学で教授をされている年配の理学療法士に、「理学療法士は3年でその職場に慣れて、一端の仕事ができている気になるが、実態はただその職場のやり方に慣れただけで、理学療法ができるようになったわけではない。その事に早く気づいて、卒後も学びを続けることができるかどうかで、10年後、20年後の差ができる」と言われた。その時に、学びをやめなかった自分は捨てたものではないなと、初めて思えた。
その頃大きな出会いがあった。ロビン・マッケンジー先生のマッケンジー法に出会ったことだ。日本でもマッケンジー法の講習会があり、当時日本のマッケンジー法の第一人者であった岩貞先生が患者デモンストレーションで、目の前で次々と腰痛患者を改善させていく様は驚異的だった。。すっかりマッケンジー法のとりことなった私は、マッケンジー法の専門家になることを決め、1年かけて認定セラピストとなった。ただ、残念なことに、総合病院のリハビリは入院患者を中心にするという国の方針を受けて、私の勤め先でも同様に外来リハビリは縮小となった。
そして、中国で新種のウイルスが発見されたとか、しないとかで世の中が不安になりつつある中、私は自宅近くの整形外科クリニックに転職することを決めた。給与的には100万近く減る計算で、お金第一なら転職は考えなかったが、直せる理学療法士になりたい、という思いから外来中心のクリニックが最も適していると思い決断をした。
ある女性患者との出会い
その20代の女性は、翌年にショパン国際ピアノコンクールに出場が決まっている才能豊かな方で、悩みはピアノの練習をしていると、腕が痺れるように動かなくなるという症状だった。私は自分にできる限りの理学療法を行ったが、残念ながら症状は一進一退で、自分の知識と技術のなさを何度も何度も思い知らされる結果だった。
その頃、Youtubeで自称、世界の腰痛を癒すKYTテクニックのKen Yamamoto先生を知り、そのセミナーが日本で開催されるということで、コロナのパンデミックで世界中が戦々恐々とする中、東京まで行ってセミナーを受けてきた。KYTは今までにない考え方で、どんな症状でも体全体をみるというのは、理学療法にはない考え方だった。同年にKYTアドバンスも受講し、これで治せる療法士になれる!と思ったが、それもまた間違いに過ぎなかった。
ほとんどの受講生はKYTをならったとて、とても直せる整体師にはなれないと思う。大多数を占める、普通の人々は一撃で長年の痛みをいやすことはできない。Ken Yamamto先生が特殊なのだ。そんな当たり前のことが、分からなかった私は、ゴッドハンドを目指して、さらなる迷宮へと迷い込んでいった。
ピアニストの女性はとても勤勉で、セルフケアをしっかりと行い、またご自身でもいろいろと体のことを学ばれ、ある程度回復の方向に向かっていったが、それは彼女自身の努力であり、私の施術がもたらした結果ではなかった。つまり私はまったくもって無力だったのだ。
一歩踏み出す
そんなこともありながらも、やっぱりゴッドハンドを目指す旅を止めることができず、YouTubeやインスタなどSNSを駆使して、情報を集めていた。その中で、松田圭太なる人のYouTube広告が度々表示され、最初は興味はなかったが、何となくサイトを見てみた。そこでMSMメソッドなるものを学んでみたいと思い、松田先生を訪ねることにした。松田先生に導かれるままに整体師として起業することになったが、正直なところ、自分にできるのかと疑心暗鬼でのスタートでした。
私は、松田先生が主催する起業コンサルと、施術のセミナーがセットになった松田塾なるものに参加し、企業の準備をしていった。しかし、自分の心は全力で起業を拒否していた。それは自分の施術に自信がないことと、そもそもお金を稼ぎたいという気持ちはなく、只々患者さんの役に立ちたい、患者さんの痛みをとってあげたいという思いからだったので、やたらとお金のことを強調する起業コンサルは苦痛でしかなかった。しかし、これも何かの機会だと思い流れに乗ってき起業をしてみた。
大きな挫折と出会い
しかし、そんな後ろ向きの気持ちで始めたことが上手くいくはずもなく、すぐに整体院はやめたくなってしまった。経営自体はやっていけないことは無かったが、とにかくクライアントさんの役に立ててる気がせず、それが苦痛でならなかった。そんな時、たまたまYOUTUBEで兼子ただしなる人物を知ることとなった。まだ神経系ストレッチのフランチャイズは始まっていなかったが、神経系ストレッチを学んでみたいと思った。
そして、兼子先生に直ぐに連絡を取ったところ、神経系ストレッチをフランチャイズで始めるので、是非そちらに加入をしてくださいと返事をもらいました。そして、神経系ストレッチの一期目に応募し、フランチャイジーに選ばれました。しかし、ここでも大きな挫折をすることになりました。それは、フランチャイズの加入金が用意できず、結局この期のフランチャイズ加入は見送ることになりました。
しかし、どうしても神経系ストレッチを学びたいと思っていたところに、ストレッチ大学なるものが始まると告知があり、迷わずこちらに申し込むことにしました。そして、1年間ストレッチを学び、二期目の神経系ストレッチフランチャイズの募集に応募し、フランチャイジーに選んでいただきました。
これから
そこから1年間かかりましたが、今回無事フランチャイズをオープンすることになりました。神経系ストレッチはストレッチ大学から足掛け、2年間学び続けました。また、当時勤めていた整形外科で、神経系ストレッチの手技は色々と試してきました。
私の目標は、希望するすべての人に神経系ストレッチを届けることです。まず、山口県内にしっかりと根付くことです。そして、せっかく神経系に来たのに良くならなかったと、がっかりする人が出ないように、技術・知識的にも常に進化し続けることです。